1 一日目
「昨日の今日ですまないが、これから、帰れない日が続くかもしれない」
突然の言葉に、光は息を詰まらせる。優香も口を開けたまま、昇の方を見る。
「仕事が大変なの?」
光のその台詞に、昇は幾分苦しそうな表情になる。
「ああっ、細かい事を言っても分からないと思うが、とにかくとても忙しいんだ」
黄色の柔らかい日差しが、庭には降り注いでいる。後ろを屋敷、前を森に囲まれた閉鎖的なイメージの庭。そこに用意されている青銅製のテーブルを囲み、光と昇、望、そして優香の四人が朝食をとっていた。時間は朝の八時。
まだ湯気の出ているベーコンエッグを口に運びながら、昇は光に続ける。
「もうお前も結婚出来る歳にまでなったんだ。父さんがしばらくいなくても、大丈夫だと思うんだ。優香も望も家にいる事だしな」
ゆっくりと砂糖の入ったホットミルクを飲む光。僅かな静寂が流れる。しかし、その静寂を破った光の顔は、晴れやかだった。そこには、無理をしているような仕草は全く伺えなかった。
「ええっ。ずっと帰ってこないわけじゃないんだから、心配はしていないわ」
「そうか。そう言ってくれると助かる。望、優香、光の事を頼んだぞ」
ベーコンを刺したフォークを皿の上に置きながら、昇が望と優香の顔を交互に見る。優香はまた掴み所の無い笑顔で返すが、望は素直に頷こうとはしなかった。
「何も心配しなくていいよ」
そう素っ気無く言う事しか、望には出来なかった。望は優香にも同じ顔を見せる父が、あまり好きではなかった。彼の中にいる父は、いつまでも亡き本当の母の隣で安物の煙草をくわえている父だった。
「望さん」
段々と冷えてゆくベーコンを眺めている望に、突然優香が口を開いた。望は首筋をブルリと震わせて優香の方を見る。優香は長く美しい髪の毛を手の甲でサラリと背中に流す。
「今度からは朝ご飯はお米にします? 何だか食事が進んでないようだけど‥‥」
そう言う優香の仕草は、何となく望に恐怖や緊張という感情を持たせた。
「いや、今日はたまたま食欲が無いだけなんです。気にしないでください」
「そう? なら、いいんだけど‥‥」
まだ半信半疑と言った感じだったが、優香は視線を光と昇に戻して、紅茶を一口啜った。望は内心、ホッと心を撫で下ろしていた。
「優香、この屋敷の面倒は頼んだぞ」
あらかた食事を終えた昇は、葉巻に火を付けながら優香の方を見る。紅茶の入ったカップを手にしたまま、優香はコクリと首肯いた。カップを持つ仕草、首の曲げ具合、全体の落ち着き加減、全てが男を誘惑するような、怪しげな色香を放っている。
少し歳の離れた夫婦。白髪の目立ち始める歳の男と、肉体として絶頂にいる女。この二人の間にどんな事があったのか、望はよく知らない。仕事上の関係で知り合ったという事しか知らない。
初めて優香を見た時の望の感想は、綺麗な女の人、だった。とても自分の母になる人だとは思えなかった。光もそれは同じだった。
前の母親、二人の本当の母親も綺麗な人だった。しかし、四年前に体を病魔に犯されてからずっと寝たきりになり、二人は元気だった頃の母よりも床で毎日毎日熱を出しながらうなされ、次第に醜く痩せ細っていく母の姿の方を印象的に覚えていた。だから、死のイメージの全く無いこの新しい母の姿は、どこか安心して見る事ができた。そして、望はそれと同時に表現しにくい違和感をも感じていた。それは表面的には本当の母ではない、という漠然としたイメージでしかなかったが、もっと何か別の理由があるような気がしていた。でも、それが何なのかは望自身にもよく分からなかった。
「分かってるわ。あなたは何の心配も無く出張してきていいのよ」
優香は紅茶を全て飲み干した。昇は静かに笑い、帰ってきたら四人でどこかオーストラリアにでも旅行をしようかと言った。体格に似合わず少し猫背になる。
「あら? 恵美さんと真一郎さんは?」
「たまには家族水入らずもいいじゃないか」
四人の中で、小さな笑いが沸き上がった。しかし、その笑いの意味は皆違っていた。そして、誰もそれに気づく事は無かった。
日の光は次第に四人を強く照らし始めていた。
それから昇は約一週間分の衣服と、仕事に使うノートパソコンと資料を二つの大きなバッグに詰め、時計の針が正午になる前に屋敷から出ていった。別段不思議でも何でも無い光景。もう何度この光景を見たか知れない。母が死んだあの日も、父はこんな風に大きな門を開けて消えていった。それは望には、辛い現実から逃げ出していくような、そんな光景に見えた。
しかし、今目の前にある真っ黒い車が巨大な門を通り遠ざかっていく光景はそうには見えなかった。それは優香という女がこの屋敷に来て、ここには辛い現実が無くなったという意味ではなかった。望は心の中で嘲ら笑った。
光は本を読むのが好きだった。だから、この休みの間にたまっていた本を読んでしまおうと、午後は自分の部屋で一人本を読み耽っていた。恵美と真一郎は手の指の数よりも多い部屋を掃除している。優香は主人のいなくなった部屋の机の上で今月の出費を計算している。外では都会で住みかを無くした鳥達が、草原の中で羽を休めている。
静かな午後だった。
屋敷は一階に接客室と食堂、そして昇と優香の部屋がある。二階には望と光の部屋がそれぞれ三つずつある。しかし、本人達は一つずつしか使ってなく、残りの四つの部屋はいつも無人だった。三階には真一郎と恵美の部屋が一つずつ、他の部屋は物置になっている。その中の一つが、望や恵美、真一郎達の
“パーティー”の部屋になっている。
望は自分の部屋で本を読んでいた。肘付きのソファーに深く腰を下ろし、片手に煙草を持ちながら、太陽に背を向けるような形で、本を読んでいる。しかし、それは光が読むような普通の小説ではなかった。
表紙は薄紫の小さな花の群生している風景で、裏には何も書かれていない。タイトルも何も書かれてなく、外から見たのでは何の本か全く分からなかった。
金を持て余している者達が楽しめる遊び。それがこの本には詰まっていた。人間の売買が行なわれる世界でしか見る事の出来ない本。嗜好と快楽の為だけに人が死に、そして狂う世界でのみ開かれる本。
住民登録されていない少女、親に捨てられ孤児院にいる少年、非行に走り、もう社会には復帰出来ない者達‥‥。様々な子供の顔写真が載っていて、その下に値段がついている。最低百万からで、最高では数千万の子もいた。数千万の子は芸能人の子でありながら、スキャンダルを恐れて捨てられた子や、人を殺した事のある子が主だった。容姿でもその金額は様々だった。美しい者はそれなりに高く売買された。昨日、恵美が殺した少女は容姿の割りには随分と安かった。それはあの子が何の変哲も無い子だったからだ。
あそこが最も現実を表していると、望は思った事がある。世の中は全てが競争だ。学校の成績、会社の成績、容姿の善し悪し、全てに良い悪いが決められている。あそこには、勝者と敗者がいるのだ。勝者が敗者を支配しているだけなのだ。それは、一歩普通の社会に出たところで何一つ原理は変わっていない。ただ、その行為が少し一般常識と異なるだけの話なのだ。
「‥‥」
静かに煙草を吸いながら、望は次に連れてくる少女や少年を決めていた。いつもいつも殺すわけではなかった。犯し甲斐のある者は殺さずに、いつまでも地下にある部屋に閉じこめて、何度も楽しむ。マリファナを吸いすぎて狂ってしまった者は、狩りとしても楽しむ事が出来ないので、注射で殺した。死体がどうなるかは、望は知らない。いつも恵美か真一郎が処理していた。
何故、こんな事を始めてしまったのか、望自身よく覚えていなかった。ただ、母が死んでしばらくして、恵美が可愛らしい女の子を屋敷に連れてきた事から、全てが始まった。そして真一郎がどこからかマリファナを手に入れてきた。材料があった。だから、料理した。ただ、それだけだった気がする。
でも、今ではこの普通の人から見たら異常であろう行為無しでは、望は生きられなくなっていた。パーティーが始まれば、一瞬だけだが全てを忘れて生きている事が楽しく感じられた。何も変わらない現実、何も出来ない現実、光と愛し合う事の出来ない現実。それらを忘れる事が出来た。もう何人の子と交わり、そして目の前で死んでいったか分からなかった。
まだ地下には二人の少年少女がいる。少女は昨日のパーティーで望を求めていた少女だった。少年は真一郎が買った子だったが、一度パーティーで恵美の首筋に歯形をつけて怒られてから、見ていなかった。望は彼女にもう飽きていた。しかし、殺すのも飽きていた。最初はこの事が表に出る事を恐れての行為だったが、何人目からか、もうその理由も曖昧になり、ただ人を殺す事という意味しか持たなくなっていた。そして、それすら望には刺激的なものではなくなっていた。だから、この子は元値の半分位でまた市場に戻して、別の子を買おうと思っていた。
「‥‥望さん。いますか?」
わざとらしい甘い声が、扉の向こうから聞こえた。望は首だけを扉に向けてどうぞ、と答える。焦茶色の大きな扉を開けて入ってきたのは恵美だった。動きやすいようにか、ジーパンとYシャツ一枚という出で立ちだった。恵美は望の持っている本を見ると、目を大きく開き近づいてくる。
「次の子、決めてるの? まだ地下にいるじゃない」
「あの子は淫乱だから飽きた。市場で売る。いいですよね? どうせ、俺しかあの子は使わないんだから」
「まあ、構わないわ。それで、次はどんな子にしようと思ってるの?」
それを聞いて望は言葉に詰まった。本当は新しい子なんか必要無かった。光が欲しかった。自分の事を誰よりも分かってくれる光。光以上に望むモノなど本当は無かった。
「目が大きくて、髪の毛は肩くらい。髪の色は収穫前の稲穂色で、胸はそんなに無い方がいい。そして、声が可愛らしい‥‥」
「光ちゃんそっくりね。その子」
「‥‥悪いですか?」
「別に」
恵美は望の口から煙草を奪うと、口にくわえて大きく息を吸った。そして、けほけほと咽せ返し、何でマリファナじゃないのよ、と怒った。望はその問いには答えなかった。恵美は小さくため息をつくと、望の座っている椅子の近くにある大きめの机に、どかっと座り込んだ。座ると少し背中の方がきつくなり、腰辺りが顔を覗かせる。首を曲げて望の持つ本に目を落とし、赤い髪の毛を無造作に束ねる。この時だけ、望は恵美が綺麗に見えた。自分を包み込むような、そんな感じがした。
「‥‥この子なんかいいんじゃないの?」
そう言って恵美はある少女を指差した。望の目が恵美の指を追う。そこには一人の少女が載っていた。確かに光によく似ていた。正確に言えば、光が十二歳の時の姿に、だ。
本には少女の名前は載っていない。年齢と値段、そして処女かそうでないかしか書かれていない。少年の場合は童貞かそうでないか、である。そして、値段が高い者は更にその下に、ある芸能人の子であるとか、人を殺した経験あり、と書いてある。少年少女は十五歳を過ぎると一気に値段が低下する。また六歳以下の者も値段は格段に安い。最も高い歳は十一から十三程度の少女だった。
その少女の下には年齢十二、値段四百万円、処女、と書いてある。その下に、乱暴な父を持っていた為、市場に来る前に舌を焼き切られ、喋る事が出来ない、と付け加えられていた。
「‥‥本当によく似てる」
「どうするの? 買いに行くの? 今日行かなかったら、今度は三日後になっちゃうわよ。それまであの子で我慢するの? それとも、喋れない子じゃ不満かしら?」
市場は三日に一度行なわれる。そこで少年少女の売買が行なわれる。オークションに来る者の思考は実に様々だ。中には一度買ってから仕込みをして、かなり淫乱になった子を再びオークションにかける者もいたり、痛みを快楽として受け取るように調教した子を売る者もいる。しかしそれは異常な行為ではない。少なくとも、オークションに来る者にとっては、そんな事は日常茶飯事的にある事だった。
それが当たり前の人間にとって、人間を一人買う事など大した決断でも何でも無かった。ただ、欲しい玩具があったから買ってくる。その程度でしかなかった。
「‥‥今日、買いに行く」
「よし、決まり。もう少しで掃除が終わるから、そうしたら行きましょう。この屋敷って人里離れてるから、行って帰ってくるのも一苦労よね」
煙草を乱暴に灰皿に擦り付けると、恵美はスキップをしながら部屋から出ていった。彼女は一体、どこからこんな市場がある事を知ったのだろう、とたまに望は思うが、どこか恐くてそれを聞いた事は無かった。しかし大体は想像出来た。